せっかく書いた記事が消えちゃった。
おずんつぁんおばんつぁんが消えてしまった。
もう1度書くエネルギーはない(14日)
やっぱり、おずんつぁんおばんつぁんのことを書くことにしました。
おずんつぁんとおばんつぁんは私の父親の両親です。
私が記憶している二人が暮らしていた田舎の家は、イグネ居久根(屋敷林)の回っているとっても広い家でした。屋敷の周りはうっそうとした林でおずんつぁんはいろいろな実のなる木を育てていました。屋敷の中には川が流れていて、夏には蛍を捕まえたりして遊びました。
父は、おずんつぁんおばんつぁんの末っ子でした。
その父が母のところに婿養子となり、結婚したのです。
上のお兄さんたちは早世してしまったので二人は晩年、父に引き取られる形で同居しました。
田舎の家?もうありません。だれも住まなくなったところはいずれ無くなるのね。
おずんつぁんの育てていたイグネ居久根(屋敷林)のグミの木の実の味、屋敷の中を流れていた川で捕まえた蛍。おばんつぁんが吊ってくれた蚊帳の中に放した蛍の光、なつかしく思い出します。。
おばんつぁんはお料理が得意でした。今思えば田舎料理の、畑で収穫したものがならんだ つつましい煮物や焼き物だったけれど、毎日卵かけご飯用に生みたての卵と共にいただきます。
もう・・・・・おいしくておいしくて最高でした。
私が仙台の中学校に通っていた頃、おばんつぁんは不治の病で入院しました。一日おきに手紙を書いておばんつぁんに届けました。彼女にはとても喜んでもらいました。しかし、おばんつぁんは回復することなく、亡くなりました。80歳でした。
おずんつぁんは父がひきとって塩釜暮らし。塩釜に建てた家と父が暮らす家と行ったり来たりして気ままに暮らしていました。
おずんつぁんはとても働き者で、工場でいつも玉ねぎを剥く仕事の一端を担っていました。工場で働いている女性従業員たちと冗談を交わしたり、時にはおしりを触ったり。元気でした。
母方の祖父母とは一世代も年が違っていたことがあつれきと無関係だったことの理由でしょう。
私はピアノを子供のころから弾いていましたが、ショパンなどを弾いていると、
おずんつぁんが言うには
下手だごだ。いづんなったら美空ひばりが弾がれんのや
たまにはおずんつぁん孝行のつもりでリンゴ追分とか伴奏したりしたわ。
陽気で頭脳明晰だった彼は長生きしましたよ。私が次女を出産した日に葬儀でした。
いずれ私もおずんつぁんおばんつぁん、おじいさんおばあさん(母方の祖父母)、父、母、の住む世界に行くことでしょう。
その時はあんたなんか知らんなんて言わないでね。
見入ってしまった名勝負といえば?
名勝負の前に、将棋をよく知らない。
棋士だって羽生善治さん羽生善治 - Wikipediaと
藤井聡太さん藤井聡太 - Wikipediaくらいしか名前を知らないし。
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